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2008年5月 4日 (日)

司法のあり方

 去る4月25日、最高裁で精神鑑定の評価について「否定する合理的な事情がない限り十分に尊重すべき」との判断が示された。これについて「裁判員制度に向け国民にわかりやすい指標になる」などと評価する意見が聞かれる。

 しかし、最高裁の裁判長ってのはどれだけ偉いんだろう。この人の判断に、他のほとんどの裁判も従わなくてはいけなくなってくる(直後の渋谷夫殺害事件判決には影響しなかったが)。間接的とはいえ、民意を反映して選ばれた内閣総理大臣でさえ、これほどの権力は持っていないだろう。国民の投票で選ばれた議員が決めた刑罰の適用方法が、一人の裁判長の判断で勝手に決まってしまう。この構造、おかしくないか?

 それに、国民への指標ってなんだ? 元々この制度を取り入れた理由の一つは、一般人の感覚を判決に反映することだったはず。そうであれば、何も最高裁に指標を定めてもらわなくても、一般的な感覚で判断すればいいだろう。

 そもそも、この裁判員制度は導入すべきでないと思っている。何せ、最新の最高裁の調査でも同制度に参加したいと思っている人は15%程度。つまり、8割以上の人がイヤイヤ参加させられるのである。無理やり参加させられるのも問題だが、そんな人に人生を左右する判決をされる当事者(被告や原告、その親族など)はもっとたまらない。

 ただ、裁判員制度が導入されるのは地裁だけで、控訴されれば結局裁判官で決めることになる。これが当事者にとっては救いか。ただ、民間人を参加させる制度としては、いかにも中途半端だ。判決は裁判員6人と裁判官3人の多数決だが、多数の中に裁判官が1人でも入っていないとダメ。何のために仕事を休んでまで参加させられるのか。

 確かに、司法制度の改革は必要だと思うが、何でも変えれば良くなるということじゃないだろう。裁判員制度には問題が多すぎる。

 それでも、メディアはただ同制度の宣伝まがいの報道を繰り返すばかり。凍結や廃止などを訴える報道は聞こえてこない(知らないだけ?)。

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